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「摄影者的留言」

佐々木秀一Steve Sasaki

佐々木秀一

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1、戦争で母が苦難生活

①(戦争と父の出兵)

私の父と母は、青森県の農家出身でした。母は戦争中に20歳でお見合結婚した。父は八戸市の和菓子工場の職人として働き、私と弟の四人家族は幸せに暮らしていた。1945年終戦の直前私が5歳の時に、父29歳に召集令状が来た。この時から母25歳の苦難が始まった。

B29爆撃
1944年父と五才

②(伯父の家へ疎開、お前は乞食)

アメリカの飛行機攻撃があり危険が迫ったので、母を町に残し、私と弟は伯父の農家に疎開した。私は畑の作業を手伝っていた。

伯父から、「お前は乞食と同じだ、人から食物を貰ってばかり。」と言われた。私が茶碗にご飯ツブを残すと祖父が「一粒も残さず大事に食べろ!」と私の頭にゲンコツを炸裂させた。

母と子の疎開

③(母の行商でその日暮らし)

私の小学校入学を機会に、伯父の村から隣の村に引越しをして、母と一緒に三人で暮らす事にした。母は戦後の経済混乱と無秩序の時代に、心身共に苦難と戦い二人の子供を養ってくれた。

その頃は女性の仕事はほとんど無い。母は重いリンゴを背負い行商に出た。早朝から汽車で出かけて夕方疲れて帰るが、稼ぎは少なく、その日暮らしだった。

食料不足でお米が政府統制下に置かれ、母は闇米の運搬行商をして警察に捕まった。父の残した和菓子の木型で餅や飴を作って売った。駅の売店で蕎麦を売る店員もした。

④(私の子供時代)

小学校へ村から片道4キロの山道を超えて、下駄で通学した。まだバスは走って居ない。冬の雪道は稲ワラで作ったツマゴで通学したが、足が冷たかった。私は新聞配達や牛乳配達をして母を助けた。私は自分と弟の弁当を作ったが、おかずは梅干しでご飯に醤油を垂らしただけ。

稲藁のツマゴ

⑤(ボロ家の自宅)

私達の家はボロ家だった。屋根が雨漏りするので、バケツを側に置いて寝る。天井の紙貼りの穴から、ネズミが走り回りゴミが降る。家の壁の穴から、冬の吹雪が部屋に降って来た。

2、父の戦死通知

①(父の戦死通知)

1945年8月15日終戦となり、日本の兵隊が大陸から大量に舞鶴港に帰還した。ラジオが帰還兵の名前を毎日放送していたが、何年間も父の名前の放送は無かった。

終戦後8年間も経過して私が中学2年生の時、34歳の母に父の戦死通知が届いた。父は29歳の若さで、国家の犠牲になった。

満州国
死亡通知 満州国

②(骨箱に馬のシッポが)

母と私は市役所に父の遺骨を受取りに行き、木箱を渡された。箱を開けたら、馬のシッポの毛が入っていた。母はそれを見て床に泣き崩れた。母は父の生還を待っていたのに。

③(社会への反発心)

自宅に帰ると村人が母の抱く戦死者を出迎えた。お墓で線香を焚く母は泣き声を出さなかった。私は悔しくて、社会に反発心を抱いた。なぜ私の父は戦死したの? なぜ我家は貧乏なの?

3、私の進学と就職

①(仙台で国家公務員)

我が家にお金が無いので高校進学を諦めていたが、母が私を高校に行かせてくれた。高校卒業後に国家公務員の試験に合格して、仙台で3年間働き大学進学のお金を貯金した。

②(日本経済新聞社に入社)

慶応義塾大学を25歳で卒業した時に国家公務員上級職甲種に合格し、中央官庁の面接を受けた。日本経済新聞社にも合格した。経済の勉強に役立つと考えて新聞社に就職した。

当時はオリンピックや新幹線開通等、高度経済成長の時期。経済の源泉である企業経営に興味を持ったので、通勤電車の中で受験勉強して、5年間で税理士と公認会計士の試験に合格した。

日経新聞

③(私の新婚生活)

私は子供時代に家庭が無かったので、早く家庭を作りたかった。新聞社に入社して直ぐに結婚した。新婚生活は地下鉄新高円寺の小さな木造モルタルの、全7室のアパートの4畳半で始まった。私の給料は2万4千円、家賃は月額6千円。持ち家を買う計画で、妻も共働きした。

アパートに風呂は無く、トイレは共同使用。銭湯へは洗面器を持ち、「神田川」の歌詞と同じく石鹸の音をカタカタ鳴らして二人で出かけた。台所はコンロ一個置けるだけ。

4、監査法人へ転職

①(トーマツ監査法人に転職)

公認会計士の専門職に興味を持ち、新聞社から監査法人に転職した。上場会社や外資系企業の会計監査の仕事で、多様な業種を経験し、沢山の人と会話する機会を得た。

トーマツ

②(国際課税の経験を得たい)

国際課税に興味を持った。当時はトーマツの海外事務所はニューヨークだけ。ヨーロッパにも拠点を作る事になり、1976年37歳の時に初代の英国駐在員として海外勤務を決心した。

5、イギリスの初代駐在員

①(Londonの会計事務所)

Touche Ross会計事務所は2千4百人の大規模事務所で日本人は私だけ。Golders Greenの自宅から早朝に長女をChelsea日本人学校へ同行。8時に金融街Bankの事務所に出勤した。

London会計事務所

②(国際租税の経験)

3年間にドイツ、オランダ、フランス、スイス、イタリア、ベルギー、アイルランド等の欧州各国に出張し、国際租税を経験した。「異なる人の意見と文化を尊重する」大切さを知った。

6、ロンドン大学の大学院入学

①(ロンドン大学の授業)

会計事務所の任期を終了したが、英国の大学院で時価会計の理論を勉強する事にした。2年間ロンドン大学の大学院LSE(London School of Economics)に入学する事が出来た。

英国の大学院の勉強の仕方は日本と異なり、デスカッション形式で実施され、宿題の量が猛烈に多い。各先生が英文図書50ぺージの宿題を出す。大学図書館で毎日深夜まで勉強したら、血尿が出て入院した。生涯にこんなに勉強したのは初めてだった。

London大学

②(修士論文と卒業試験)

修士論文が一番の苦労であったが、妻がタイプ打ちをしてくれた。1980年に難関のマスター卒業試験に合格し、学位を得て卒業出来た。マスタークラスの生徒が20人いたが、途中の落伍者が5人、試験不合格が4名。私は幸運な合格者であった。

収支修了証

7、監査法人のパートナー

①(トーマツ監査法人のパートナー)

帰国後に1981年トーマツ監査法人のパートナーに推薦された。上場会社の会計監査報告書に名前を署名する際には、株主から損害賠償訴訟の可能性を覚悟した。

仕事の厳しさは、自己の責任意識の向上に役に立った。上場会社の会計監査など、毎年約20社位の監査を行った。国際業務や新規上場IPOのコンサル等が忙しく、毎日残業を重ねていた。

8、独立開業を決断

①(一番町で独立開業)

外国で生活した私は、自由な生活を欲した。1988年監査法人を退職して独立開業した。当初お客は1社も無く収入はゼロ。それなのに広い事務所を月額50万円で賃借し、税理士を採用したので、貯金も無くなり家族を養っていけるのか不安だった。

②(独立時の経営方針)

私は次のような方針で経営する事にした。この方針は今でも継続している。
第一に、自分個人の利益や規模拡大を追わない事。
第二に、お客へ良質なサービス提供を優先する事。
第三に、職員の個性を尊重し、女性の多様な働き方を認める事。

③(顧問先の増加)

最初の顧問契約は、英国で200年の歴史がある運送会社ジョン・スワイヤーで、その次の顧客は元の勤務先である日経新聞社の関係会社、QUICK(市況情報)であった。

さらに娘が勤務していた銀行から、航空機リースSPCの依頼があった。日本の大学をTOPで卒業した中国人を採用したお陰で、JETROから中国系会社の依頼もあり、軌道に乗って来た。

9、Horwath Internationalに加盟

①(国際的ネットワークに加盟)

1994年に世界で第7位の国際会計事務所Horwath Internationalに加盟した。この事務所は世界の150カ国の加盟国ネットワークがあり、海外出張や外資系の顧客が増加した。

Horwath代表

②(中国語が役立つアジア経済圏)

採用した中国人のお陰で、上海、北京、深圳、香港、シンガポール等の会計事務所と提携契約が出来て、相互訪問をして税制情報を交換出来た。

③(過労で病気)

私は当時、年間360日3千時間位働いた。海外出張中の北京に滞在中にバセドーシ病と診断された。山梨県から自宅へ運転中に高速道路が地震のように揺れ、翌日に高血圧と診断された。

10、税理士法人東京総合会計

①(紀尾井町へ移転し税理士法人に)

税理士や公認会計士も採用して人員が充実して来た。一番町から紀尾井町に移転して、事務所の面積を倍増させた。同時に税理士法人東京総合会計に組織変更した。

②(東京駅前に移転)

2006年東京の中心である東京駅前に移転した。外資系のお客様、金融機関、大手商社の金融部門、不動産関係、ソフトウエア等の顧問先が増加した。中国系会社のお客様も増加した。

東京駅前移転

③(社労士法人の設立)

社会保険や給与計算の業務に対応するために、社労士法人を設立した。最近の労務コンサルの仕事も取組が可能となった。

④(後継者も育成)

後継者も育ち、国内企業の税務や会計だけでなく、国際的な業務や事業承継等多岐に渡るようになった。言語も英語と中国語のサービスに対応している。

11、母が天国へ逝く

母が92歳まで長生きしてくれた。母の最期の言葉を忘れない、
「お前に何もしてやれなくてゴメンね。
お前は何でも自分でやる人だったね」。
母が父の待つ天国へ逝った2月29日日は、東京では珍しく雪と雨の降る寒風の日だった。故郷青森県の厳冬を思い出した。

母

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