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「摄影者的留言」
1、戦争で父が満州へ、母の苦難生活が始まる
①(アメリカの飛行機で町が火災)
私の父と母は青森県の農家出身でした。母は戦争中に20歳でお見合結婚し、村を出て八戸市漁港に近い陸奥湊駅前の風呂屋二階の小さな部屋を借りた。父は和菓子工場の職人。私と弟の四人家族は平和に暮らしていた。
風呂屋の家主、武尾吾郎おじさんは私に優しくしてくれた。父はお菓子工場から仕損じた菓子を持って帰宅し、私はそれを食べて太った。隣の家は床屋の志郎、向かいの家は下駄屋の幸子、3人仲良しだった。
戦況が悪化してアメリカの飛行機が、工場や住宅に焼夷弾が落下し火災が発生した。道路に消火用の貯水樽が設置された。母が私に綿の防空頭巾を作ってくれた。お米が配給制になり、ご飯は薄いおかゆと大根の葉だけに変わった。
②(父が満州へ出兵、母は涙で見送る)
1945年終戦の3か月前、父が29歳(私が5歳)の時に戦争の召集令状(赤紙)が来た。父は多くの兵隊と貨車に乗せられ、若い母25歳は泣きながら日の丸の旗をしきりに振っていた。
この時から母が家族を背負って、苦難生活が始まるとは私は想像出来なかった。
父は中国満州の遼寧省瀋陽市の日本軍大本営へ、その後ハルピン北のロシア国境へ転進。ロシアはドイツに勝利した戦車軍を満州に急遽運搬し、手薄の満州日本軍を殲滅。数十万人の捕虜を極寒のシベリアで強制労働させた。父は生死不明となった。
③(母の兄の家へ疎開、「お前は乞食だ」)
アメリカの飛行機攻撃で町が危険なので、母を町に残し私と弟は母の兄の農家に疎開した。兄の家には息子二人と爺さん婆さんの6人。食事の時は私と弟は遠慮しながら正座して食べた。
私の食後の茶碗に米粒を付着していると、「一粒も残さず大事に食べろ!」と私の頭に兄のゲンコツが炸裂した。「この米は俺が働いて収穫したのだ!」。
兄の言葉を今でも忘れない。「お前は乞食と同じだ、人から食物を貰って食べているだけ」。私は田植え、リンゴ栽培、殺虫剤散布等の農作業を手伝った。
2、母は行商でその日暮らしの生活
①(母は行商で家族を養う)
終戦後兄の家から隣の村に引越し、母と三人で暮らした。母は戦後の経済混乱の時代に、女性の仕事を見つけることは困難であった。最初は父が残した和菓子の木型を利用して、饅頭やお祝事の鯛の餅を作って売った。
お米の自由販売が出来なかった時代、母が闇米の運搬をして警察に捕まった。背丈が150センチしかない母が、リンゴ行商で大きなカゴを背負い、汽車で3時間半の盛岡市のお城の道路にリンゴを並べて、夕方迄売った。その日暮らしで食べる生活。
②(他人の畑から食料を盗む)
私は他人の畑から勝手に芋、野菜、人参、さつま芋、大根、リンゴ等を盗んで食料を調達した。川でドジョウやナマズ、山でアケビ、栗、キノコを獲り弟と食べた。
お米が無い時は、友達の中村君のお母さんから1合だけお米を借りて食べた。返済は出来なかった。
③(小学校は4キロの峠超え)
小学校も中学校も村から片道4キロの山道を超えて、下駄で通学。冬の雪道は稲ワラで作ったツマゴを履いたが足が冷たい。当時はゴム靴が兵隊に支給され、国民には配給が無い。
黒いワンピースを着た担任の大野先生から、「50人の生徒にゴム短靴2足が配給になった」と知らされて、全員でクジ引きをした。先生が「佐々木君が当選」と発表した。先生は私が貧乏な事を知って、わざと当てたのだ。
④(中学校で新聞配達、運動会は一人)
中学になり新聞配達や牛乳配達をして母を助けた。私は朝ご飯を炊き弟の弁当を作ったが、おかずは梅干し一個で、ご飯に醤油を垂らしただけの「日の丸弁当」。
運動会に他の子供達の親が弁当を持って来て、家族一緒に食べている。私はいつも一人ポッチ。
⑤(なぜ我が家にお父さんがいない?)
何より寂しかった事は、友達がお父さんと夕食を食べている家族の中の様子を、道路から見た時でした。どうして我が家にはお父さんがいないの?家族が欲しい。
⑥(自宅は雨漏り、壁穴から吹雪)
私達の家はボロ家だった。屋根が雨漏りするので、バケツを近くに置いて寝る。天井は紙貼りのために、ネズミが走り回り紙の破れた穴からゴミが寝顔に降る。家の壁は穴だらけで、冬の吹雪が穴から部屋に降る。
3、父の戦死通知
①(父の帰還を神社へ祈願)
母と一緒に遠くの神社へ父の帰還祈願に行く事になった。
客車が無かったので、立ったまま貨車にギュウギュウに詰められ、怖くて泣き出した。母は困り果て途中の駅で降りてしまい、神社に到達出来なかった。母に申し訳なかったと後悔している。
②(終戦8年後に父29歳の戦死通知)
1945年8月9日終戦となり、日本の兵隊が大陸から大量に京都の舞鶴港に帰還した。ラジオが帰還兵の名前を毎日放送した。我が家にラジオがないので、母は近所の家のラジオで父の名前を聞いていたが、父の名前は放送されなかった。
終戦後8年も経過した1953年(昭和28年)、私が中学2年生の時、34歳の母に父の戦死告知書が県知事から届いた。なんと父の死亡日は終戦日と同じ。招集されて直ぐ死んだのだ。
死亡場所は満州国揮春県でロシアとの辺境。死亡原因は頭部貫通銃創と記載あっが、実際の真実は不明。政府が死亡扱いにしたのだ。
③(異国の丘から帰る日は来ない)
戦争中の軍歌「異国の丘」の歌詞を思いだす。「今日も暮れ行く異国の丘に、友よ辛かろう切なかろう、我慢だ待っていろ、嵐が過ぎりゃ、帰る日が来る、春が来る」。
父に「帰る日」が来なかった。父と3百万人以上の国民を殺した責任は誰か?
④(骨箱には馬のシッポ)
母と私は市役所に父の遺骨を受取りに行き、白い布に包まれた木箱を渡された。母は箱を開けた途端にドカッと床に泣き崩れた。私が箱の中を見ると馬のシッポが数本入っていた。母はあんなに身を粉に働き父と会う日を待っていたのに、なぜこんな目に会うのか?
⑤(父の墓前で私は社会に反発心)
自宅に帰ると村人が母の抱く木箱の中の戦死者を出迎えてくれた。お墓で線香を焚く母は、泣を出さないで我慢していた。「父は帰って来ない」母の内心はどんな気持ちだったのか?
私はそれ以来、社会や政府に強い不信感を抱いて生きる事になった。
自分が強く生きて行かなくてはならないと決心した。
⑥(母の結婚に反対した)
母と結婚したいという男性が現れ、母を男性の両親に紹介したいと申し出があった。母は私を連れて男性の親と面会した。私は黙して会話を聞いていた。
帰宅して母に伝えた、「お父さんと違う男性と結婚は嫌だ、私が働いて母を楽にしてあげるから」。母は結婚を諦めた。大人になって反省、母に可哀そうな事をした。
4、就職してから大学進学
①(高校生時代と就職試験に反発)
先生から「教育は機会均等」と習ったがウソだった。貧乏で高校進学を諦めていた。でも母が早朝から夜迄働き、私を高校に行かせた。母は私に父と同じ和菓子職人を期待していた。
高校卒業後に学校の推薦で、岩手県の銀行の就職試験を受けた。面接の際に「君は片親家庭の子供だ、銀行の客のお金を盗まないように」と言われて反発し、就職を辞退した。
②(国家公務員試験で就職後に大学生)
誰にも公平な国家公務員の初級試験と中級試験に合格。仙台で3年間、郵政省や文部省関係の職場で働き大学進学のお金を貯金した。
私の貯金で大学進学後の、東京の家賃を払うのは困難と考えた。母が共産党の議員に働きかけ、私が育英寮に入れた事に驚いた。大学はアルバイトで働き、昼飯は毎日モヤシ炒め。
5、日本経済新聞社に入社
①(国家公務員上級職甲種試験に合格)
慶応義塾大学を25歳で卒業した時に、国家公務員上級職甲種試験に合格し、複数の中央官庁の面接を受けた。ある官庁の面接の際に、「君は誰かの紹介状を持っているか?」と聞かれた。貧乏で縁故者が居ない私は、公務員になるのが嫌になった。
②(日本経済新聞社に入社)
日本経済新聞社を受験し筆記試験を通過。面接の際に自分から発言した。「私は他の学生と異なり、社会経験がある汚れた学生だが採用して下さい」。発言の効果かどうか合格した。新聞社は社会の縮図のような各種の職場があり、経済と社会を知る良い経験になった。
③(公認会計士試験を目指す)
当時は退職してからようやく自宅を購入できる時代であった。先輩のそんな様子を見てこれでは自分の人生の先が見えないと考えた。
私は大学で、企業の経営や財務諸表などに強い興味を抱いていた。職場に内緒で、公認会計士の試験を目指す決意をした。その頃は土曜日も働く時代でした。毎日残業で日曜日は疲れて昼寝をしていたので、子供達はパパを怠け物に見たかも知れない。
④(電車の中で公認会計士の勉強)
大原簿記学校等の受験予備校が無い時代で、独学するしかない。国分寺―東京間の往復通勤電車や、昼休みに会社の図書室で密かに過去問題集を勉強した。最初の3年で税理士に合格、次の2年で公認会計士に合格した。
突然に退職願いを部長に提出したら驚いていた。証券部記者に移動を勧められたが、記者は外部評論家に過ぎないので、実際の企業経営を内部から監査して見たかった。
6、新聞社時代の新婚生活
①(新入社員が結婚して入社)
子供時代に家庭が無かったので、早く家庭を作りたかった。新聞社に入社直前、交際していた故郷の電電公社で働く女性と結婚した。職場の皆は新入社員が結婚していた事に驚いた。
新婚生活は地下鉄新高円寺駅からバス。アパート「いすゞ壮」という名前の小さな木造モルタルの4畳半。昭和40年の初任給は2万4千円で、家賃は月額6千円。残りは1萬8千円で、夏に扇風機も買えない。妻も東京の電電公社で働いてくれた。
②(4畳半で風呂は無しトイレは共同)
風呂無し、トイレは共同。台所のコンロは一個だけ、流しは50センチ四方。布団を2枚敷き、本棚を置くと部屋は満杯。でも二人で楽しく生活していた。銭湯へは二人で洗面器に石鹸を入れて、カタカタ鳴らして出かけた。
南こうせつの「神田川」の歌詞と同じだ。「貴方はもう忘れたかしら 二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようと言ったのに いつも私が待たされた 小さな石鹸カタカタ鳴った」。
いつも待たされるのは私の方でしたが。
妻の母親が上京しアパートを見に来た。タンスを買ってあげると言ってくれたが、置き場所がないので私が断った。母親が悲しそうな顔をして故郷に帰ったのが辛かった。
③(盛岡城で新渡戸稲造と石川啄木の石碑)
結婚前の妻とは思い出がある。母が行商していた盛岡城を二人で散歩した際に、新渡戸稲造の石碑の「願わくは我太平洋の懸け橋とならん」を読み、私も海外にと思った。
石川啄木の石碑も発見。啄木の短歌の中で好きなのは、「故郷の山に向かいて 言うことなし 故郷の山はありがたきかな」です。「山」を「母」と置き換えて読むと、涙が出る。
7、監査法人へ転職
①(トーマツ監査法人に転職)
公認会計士の専門職業の知識と企業経営実態に興味を持ち、監査法人に転職した。多業種の上場会社の会計監査を担当して、貴重な経験となった。
監査の英語訳はAUDIT,つまり聞く事です。会社の職員に質問して真実を聞き出す事(AUDIT)が監査なのだ。他人と話す事に積極的になり、内気な私の性格が変化した。
②(小さな自宅を購入し、母を東京に呼ぶ)
子供が二人生まれて、どうしても自宅を欲しい。小さな建売住宅を3百万円で小平市に購入した。借金返済の為に、妊娠した妻も通勤を続けて共稼ぎを継続してくれた。
故郷で働く母親を東京に呼び寄せた。老人クラブの民謡会に入り楽しく暮らして欲しかった。母の為に小平霊園に墓地を購入し、故郷の父の墓を移転してあげた。
③(国際課税の経験を得たい)
会計監査の仕事が長くなり、仕事がマンネリ化してきた。海外で変化のある仕事をしたい気持ちになった。特に国際課税に興味を持った。
8、英国の会計事務所での戦い
①(英国の会計事務所)
当時はトーマツ監査法人の海外事務所は、ニューヨークだけ。ヨーロッパにも拠点を作るため、国際担当の富田代表に呼ばれ、1976年37歳の時に初代の英国駐在員に派遣された。
Touche Ross会計事務所は当時2千4百人の大規模事務所で、ロンドンの金融中心地のシテイにあり、英国中央銀行のBnak of Englandや東京銀行ロンドン支店が近くにあった。
②(英国式の文化に学ぶ)
英国社会では、相手の個性を尊重し、社交性が重視される。だから自分の意見を遠慮しないで発言しないと、個性が無い人と見做される。
Chartered Accountants 会計士協会本部も近くにあり、そこでランチを食べて英国の会計士の友人を得た。英国人からは、「異なる人の意見を尊重する」大切さを知った。その会話方法は、「Yes I
agree with you, but I would think ,,」と自分の意見も話す事だ。
③(職員とランチをして交流)
私はシニアマネージャーとなり、個室を貰った。任務は、英国に進出する日本企業を顧問先に獲得する事でした。所長のブラックバーン(黒焦げ)の部屋に呼ばれて、最初に指示を受けた。「職員は日本人と接触経験がない。職員とランチをして、自分を理解してもらいなさい」。事務所に日本人は私だけ。
④(所長の自宅に招待)
南の高級地区の所長宅に招待を受けた。下手な英語で奥様や大学生の子供と会話をし、食事のマナーをアドバイスしてもらった。所長はケンブリッジ大学卒業で、息子も同じ大学生。車はジャガー2台、競争馬を所有し、裏庭はテニスコート位に広かった。
⑤(私の英語原稿が残らない)
英国人会計士は、クライアントへ郵送する税法の回答等の多数の手紙を毎日発信。英国の郵便は翌日に配達される。会計士は録音機に話を記録し、秘書が忙しくタイプに打込む。
私は下手な英語を手書きして、秘書マーガレットにタイプ依頼する。秘書がタイプ完成した手紙は、完璧に英国式英語に変化しており、私の日本式英語が消えていた。情けなかった。
英語と戦う決意をした。長女を日本人学校へ地下鉄で連れて行った後、事務所に早く出勤して英語の手紙を書く。夜間はグラマーと会話の2つの学校に通学した。
9、国際租税でヨーロッパ出張
①(日本企業の獲得活動)
当時は日本の製造業が商社から独立して、英国に自社進出する時代だった。私は日本商工会やパーマストン会(支店長会)の月次ランチ会に毎回出席して、名刺交換を行った。
日本の主な銀行の支店が既に進出しており、支店長や次長に挨拶して回った。その効果で日本企業の新規進出があると、銀行から電話が入るようになった。
日本企業に対して英国の税制セミナーを開催して、私の存在が知れるようになった。日本企業の駐在員と週末にゴルフを共にして友人が増えた。新規顧客が順調に増加した。
②(会計士協会の国際課税のセミナー)
着任して勅許会計士協会主催の国際税務セミナーに参加。驚いた事に企業の移民の説明であった。日本では登記設立したら日本政府に課税権がある。英国では設立登記の場所ではなく、取締役会の開催場所で納税地が決まる。英国で設立登記しても、Tax Heavenのジャージー島で取締役会を開催すると、英国課税権が無い事になる。
③(ヨーロッパの国際税務セミナー)
Toushe Rossの全ヨーヨッパの国際税務研修会がオランダのアムステルダムで開催されたので妻を同行して参加した。宿泊を伴う出張には妻を同伴するのが習慣のようでした。
オランダの金融会社に対する税制の優遇やスイスの地方税の軽減制度が参考になった。妻同伴のデイナーで丸いテーブルを囲んで夕食した時に、女性が食事をフィニッシュしないと男性が先に離席出来ない習慣を知った。
④(ヨーロッパ各国に税務で出張)
3年間にヨーロッパの多くの国に出張して、現地の日本企業の税務問題を経験した。ドイツ、オランダ、フランス、スイス、イタリア、ベルギー、アイルランド、スペイン、ルクセンブルグ、アイルランド、フインランド等の英国人の国際税務の会計士と出張した。
私が英国に来る前から、東京銀行と伊藤忠が既にTouche Rossの顧客であったことが国際税務の経験に役に立った。
10、ロンドンでの家族生活
①(家主はユダヤ人)
自宅はロンドンの北部、地下鉄Northan Lineのユダヤ人が多いGolders Green駅から徒歩10分の静かな住宅地。住宅はSemi-Detacched
Houseと言う形式で、一棟の中央を壁で2家族に仕切った形の一般的住宅。築70年(ロンドンでは古くない)の2階建。
家主はユダヤ人で、第二次大戦のドイツから英国に逃亡してきた苦労人で、お金にうるさい性格。毎月家具や壁の傷がないか、丹念に見て回るので妻が困惑した。
②(家族の団結力が高まった)
当時の日航はアラスカ経由で15時間かけて英国に到着した。家族の中で誰も英語が得意でない。お互いに助け会いながら団結して生活する環境に置かれた。
朝は妻が車を運転して、私と日本人学校へ行く長女を駅まで送る。私は長女を地下鉄で南部のテームズ川のチェルシー日本人学校に送り届ける。妻は次女を近所の公立小学校へ届ける。
土曜日は私が二女をカムデンの日本人学校に運ぶ。自宅に戻り妻を載せてランドリーに洗濯物を投入し、スーパーマーケットで食品を購入する。その後二女を迎えに日本人学校に行き、妻の待つランドリーに行く。帰宅して皆で日本食のランチ。
③(日曜日は家族でドライブ)
晴れの日曜日は私が一番先に起きて、家族をベッドからたたき起こし、ハイウエイを飛ばす。行先はその日に決める。シエイクスピアの故郷、ストンヘンジ、ケンブリッジ、ウインザー城、チエスターの町、湖水地方、スコットランド。宿泊は到着した現地でBed&Breakfast(当時の宿泊料は4ポンド)を探す。
④(英国の小学校の教育方法)
次女は英国の公立小学校に入学した。英語が話せないので泣いて帰宅すると心配したが、ニコニコと帰宅した。聞くと、皆がチュウをしてくれた。好きなお絵描きを何時間もさせてくれた。
11、ロンドン大学の大学院入学
①(ロンドン大学院のLSEの授業)
会計事務所で3年終了後、英国のCurrent Cost Accounting(現在価値会計)を勉強したいので、2年間ロンドン大学の大学院LSE(London School of Economics)に入学した。
英国の大学院の授業はデイスカッション形式。議論のスピード早く、私の英語がついて行けない。更に各先生の宿題が毎週30~50頁の大量に出る。私が1頁読み、隣の英国人を見ると数頁先に進んでいる。
指定図書は大学図書館に沢山準備されている。毎日寒い深夜まで勉強していたら、血尿が出て3日間入院した。生涯にこんなに勉強したのは初めてだった。
②(チューター制度と英国式教育)
こんなに英語の差があると私は卒業が出来ないと不安になり、生徒指導(チューター)に相談した。
彼は言った、「あなたはすべての科目でAを取るつもりでしょうがその必要がない。得意な2科目でAを取り、他の科目はCで良いのです」。
これが英国式の教育なのだ!私は得意な会計や原価計算Management AccountingでAを目指すのは容易であった。過去5年間の修士卒業試験の論文問題も調査して自信が出た。
③(修士論文と卒業試験)
修士論文が一番の苦労であったが、妻がタイプ打ちをして完成した。マスタークラスの生徒が20人いたが、途中の脱落者が5人、試験のFail不合格が4名。1980年夏にマスター合格者の貼紙を見たら、私の名前が上位の成績で掲載された。学位を持って帰国できる!
12、監査法人のパートナー
①(トーマツ監査法人のパートナー)
帰国後1981年、トーマツ監査法人のパートナーに推薦された。上場会社の会計監査報告書に自分の名前を署名する事になり、株主から損害賠償訴訟される可能性を覚悟した。
仕事の厳しさは、自己の責任意識の向上に役に立った。上場会社の会計監査など、毎年約15社位の監査で忙しく毎日残業を重ねた。
②(新規株式公開会社の営業活動)
私は監査業務の他に、新規上場会社IPO獲得の為に、図書の出版やセミナー開催、証券会社の株式公開引受部の訪問等をした。監査法人の広報部も担当。次第に新規会社が増加した。
③(公認会計士協会の国際委員長)
1984年日本公認会計士協会の国際委員長に就任し、日本の監査制度を海外に紹介した。
13、独立開業を決断
①(千代田区一番町で独立開業)
外国で生活した私には、上司の意見に従う日本式経営に馴染めなかった。何事も自分で決定する生き方をしたかった。1988年監査法人を退職して独立開業した。
当初2年近くお客は1社も無く収入はゼロ。半蔵門駅近くの広い事務所を月額50万円で借り、税理士と職員を採用して給料を払い、貯金が無くなり家族の生活費も出ない。
②(借金が30百万円に増加)
税理士会や公認会計士共同組合から借入をし、更に国民金融公庫からも借りた。JDLの会計機の購入資金は銀行から借りた。2年間で借金が30百万円に膨らみ、真剣にやる気になった。
③(独立時の経営方針)
私は次のような方針で経営する事にした。この方針は今でも継続している。
第一に、自分個人の利益や規模拡大を追わない事。
第二に、お客への良質なサービス提供を優先する事。
第三に、職員の個性尊重と女性の多様な働き方を認める事。
④(顧問先の増加)
最初の顧問契約は、英国で200年の歴史がある運送会社ジョン・スワイヤーの日本子会社。次の顧客は元の勤務先の日経新聞社の関係会社、QUICK(市況情報)であった。
さらに娘が勤務していた銀行の国際部から、航空機リースSPCの依頼が沢山あった。JETROからは中国系会社の依頼もあり、経営が次第に軌道に乗って来た。
14、Horwath Internationalに加盟
①(1994年国際会計に加盟)
言語も英語と中国語のサービスが対応可能となったので、1994年に世界で第7位の国際会計事務所Horwath Internationalに加盟した。この組織は世界の150カ国にネットワークがあり、毎年2回国際会議に出席して、国際税務ネットワークが可能になった。
②(インドで39度発熱し死ぬ思い)
インドの世界会議に出席した際に、現地で39度発熱して4日間入院し、点滴ばかりで痩せて、死ぬかと思った。以後、後進国に出張しない方針にした。
③(中国企業の日本進出)
発展途上の中国企業が日本進出すると予測し、中国語を習った。上海、北京、深圳、大連、香港、シンガポール等の会計事務所と提携契約をし、中国に15回出張した。
15,過労でバセドー病や高血圧
①(バセドー病)
私は当時、年間360日3千6百時間位働いた。出張中の北京滞在中にバセドーシ病と診断された。足がしびれて歩けない、トイレに座ると立ち上がれない状態。完治に2年間を要した。
②(高血圧)
山梨県の顧問先から自宅へ運転中に、中央高速道路が地震の様に揺れるのを感じた。翌日に高血圧と動脈硬化と診断された。降圧剤を生涯に渡り服用する事になった。
③(前立腺肥大)
独立数年後に尿の出具合が弱くなり、診断の結果は前立腺肥大、レーザー手術をした。顧問先訪問を休めないので、血液が流れるビンを腰に付けて翌日から仕事した。
16、税理士法人と社労士法人設立
①(2002年紀尾井町へ移転し税理士法人)
税理士や公認会計士も採用して人員が充実して来た。一番町から紀尾井町に移転して、事務所の面積を倍増させた。2002年に税理士法人東京総合会計に組織変更した。
その頃には職員が40名になった。税理士を受験したい職員には、勤務時間でも予備校通学を許可した。私の理想は、職員と共に人生を歩きたいと考えた。
しかし若い職員達は日本経済成長後の豊かな時代に育った人種で、仕事を覚えると簡単に転職して行ったので、職員の数を縮小した。
②(2006年東京駅前に移転)
東京の中心である東京駅前に移転し、職員や顧問先に便利であった。外資系、金融機関、大手商社の不動産関係、JETROから中国系会社のお客様等増加した。
③(2015年社労士法人とコンサル会社設立)
社会保険や給与計算の業務に対応するために、社労士法人を設立した。当局への代理人届けや労務コンサルの仕事も可能となった。東京総合コンサル会社も設立した。
④(2021年後継者のパートナー)
木下と清水の二人の税理士を後継者パートナーになってもらい、税務や会計だけでなく、SPC業務、事業承継、相続相談等多岐に渡るようになった。
⑤(2021年日本橋に移転)
コロナ感染対策として、職員を在宅勤務体制にして、自宅にPCとプリンターを設定した。広いオフイス面積が不要となり、2021年日本橋の高島屋の隣に移転した。
⑥(健康障害)
私は2023年に、腰痛、鼠経ヘルニア、眼底出血、猛暑で体重減少等の健康障害が発生したが、今後もスポーツクラブで健康を戻して、趣味の写真撮影旅行を継続して行きたい。
17、母が天国く逝く
①(母が92歳で逝った)
母が認知症になり、老人施設を10年間も数か所を転々とした。妻が母の面倒をよく見てくれて、ストレス症状になった。私も毎週訪問した。母はあんなに苦労したのに92歳まで長生きした。
②(その日は故郷の吹雪の天気)
母が父の待つ天国へ逝ったのは2012年2月29日、その日は青森県の故郷の極寒の冬の冷たさで、雪と雨の吹雪が舞っていた。霊安室の母の顔を覗くと、安らかな白い肌をしていた。
③(親孝行をもっと出来なかったか?)
若い母が夫を待ち続け、終戦の混乱時に子供二人を育て、行商で苦労して私を育てた事に感謝した。もっと沢山の親孝行をなぜ出来なかったのか反省し、涙が止まらなかった。
④(母の最期の言葉)
最後に見舞いに行った日の、母の言葉を忘れない。
「お前に何もしてやれなくてゴメンね。」
「お前は何でも自分でやる人だったね。」
あんなに沢山のことをしてくれたのに、当時の辛い時代を忘れていないのだ。
⑤(母へ感謝の埋葬)
母の葬儀は娘や孫達も含めて、家族だけで火葬場で実施した。母の遺骨は父の眠る小平霊園に埋葬し、感謝の線香を炊きながら、昔の母の姿を思い出し自然に涙が出た。
子供の頃の母の教えは、「誠実に仕事をすれば、
必ず誰か見て評価してくれるよ」。
私はこの母のこの言葉を胸にして、事務所の運営をしてきました。
「母に向かって言う事無し、
天国の母は有難きかな」。
読んでいただきありがとうございます。
制作:株式会社イデアルデザイン